鈴木貫太郎氏が侍従長であるのに対し、阿南惟幾氏は侍従武官に就任し、共に昭和天皇をお側で支えました。侍従武官の役割は主に天皇に常時奉仕して、軍事に関する奏上、奉答、命令の伝達などを担当したとあります。
この時、阿南惟幾氏は、当時侍従長であった鈴木貫太郎氏の振る舞いを観て、懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかったとあります。昭和天皇に対しては「世界一おやさしい君主に我々は仕えておるのだ」と心服し、昭和天皇陛下の為なら、命を懸けて仕える!と決め、その(阿南の姿)に昭和天皇の阿南惟幾氏への信頼も厚く寄せられました。
阿南惟幾氏が大佐に昇進したさい、昭和天皇からも喜ばれ、上奏に行くと、昭和天皇は椅子を準備させて長時間に渡って話し込んだりしたそうです。また、昭和天皇が阿南惟幾氏を呼ぶさいは親しげに「あなん」と呼ぶようになったとあります。君主から愛称で呼ばれる臣下、羨ましいくらいの関係を築かれます。
そんな阿南惟幾氏に、風雲急を告げる事件が発生します。
1932年の1月8日に、陸軍始観兵式の帰路、皇居・桜田門の外に昭和天皇の車列が差し掛かったとき、馬車に対して奉拝者の線から沿道に飛び出した李奉昌(*いまでいう、テロリストby基礎医)が手榴弾を投げつけた事件が起こります(いわゆる、桜田門事件。ここは、江戸時代末期に井伊直弼が暗殺された場でもありますby基礎医)。このとき、阿南惟幾氏も陸軍武官用の自動車に乗って同行しており、爆発音に慌てて車列3両目の昭和天皇の馬車に駆け付け、昭和天皇の無事に胸をなでおろします。
また、翌年の1933年8月に、阿南惟幾氏は近衛歩兵第2連隊長に就任しました。この頃、五・一五事件の直後であったため、阿南惟幾氏は青年将校の情操教育に力を入れます。阿南惟幾氏は青年たちの考えを知ろうと、膝をつき合わせて語り合い、自宅に招いては手料理をご馳走します。
阿南惟幾氏は若者と語り合うのが好きだったとあり、上から目線で武勇伝や説教じみた話しをせず、よく若者の話を聞いて談笑したそうです。また、この頃の五・一五事件については軍内では決起した青年将校たちに同情的な世情含めた雰囲気でしたが、阿南惟幾氏は「軍人勅諭」の「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」と信条としており、五・一五事件には批判的であったとあります。
また、阿南惟幾氏は1934年の8月に東京陸軍幼年学校長となり、生徒監時代の熱血指導ぶりを知る元教え子たちや、阿南惟幾氏の部下思いの性格を知っている人達からは「陸軍最高の人事だ!」と褒め称えていて、彼自身も非常に大切な役目であると張り切ります。阿南惟幾氏は折に触れて、生徒たちに訓話を聞かせ、その内容は「その日のことはその日に処理せよ」「自分の顔に責任を持て」「難しい問題から先に手を付けろ」と一見、当たり前な事に見えるも大事な基本を教えます。また、生徒を引率して陸軍の演習を見学に行ったさいは、なんと昭和天皇の粋な計らいで、生徒は天皇の御座所のすぐ近くで見学することができたとあり、また久々に拝謁した阿南惟幾氏に「元気そうだね。阿南なら立派な将校を育ててくれるものと信じているよ」と親しく話しかけて生徒は恩賜の菓子を頂戴したエピソードがあります(ウィキペディア参照。)
若い将校候補達を阿南惟幾氏が育ててる中、政治の腐敗や民の困窮に純粋真っ直ぐな将校達が、1936年の2月26日に二・二六事件を起こします。鈴木侍従長が襲撃され重傷を負った報せを阿南惟幾氏は聞き、これはヤバい!!暴走してる!と感じ、動きます。この時の雰囲気はまだ軍や世間が五・一五事件のときと同様に叛乱軍将校たちに同情的であり、その雰囲気が生徒達に蔓延することが国の危機になると思った阿南惟幾氏は生徒たちに普段の温厚な感じでは無く、厳しい口調で「これは軍にとって、非常に悪いことだ!」という言葉で、彼らは尊皇からかけ離れた暴走していると訴え、また、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え!」と叛乱将校を厳しく批判し、
「叛乱軍将校は軍人として、許されない誤りを犯したが、彼らにもただひとつ救われる道がある。己の非を悟り切腹して陛下に詫びることだ」
と武人の厳しさを見せます。阿南惟幾氏からすれば、陛下のお心を悩ませるとは何事かッ馬鹿者ッ!!という気持ちでしょうか。昨今の自称尊皇議員達にも言いたい部分でもあります。
今回はここまで。
次回は緊張の国際情勢から2.26事件までの鈴木貫太郎氏をご紹介します。(鈴木貫太郎氏その3に続く。)
文責 神奈川県 神奈川のY
3 件のコメント
神奈川のY
2025年5月15日
あしたのジョージさま、パワーホールさま、コメントありがとうございます。
あしたのジョージさま、
阿南惟幾氏も鈴木貫太郎氏も普段穏やかな性格の方々ですが、いざという時は厳かになります。
パワーホールさま、
当時、軍のコントロールとパワーバランス
が難しかった状況だったかと思います。
政治家がテロやなんだかんだで弱くなり、
軍の暴走に昭和天皇も頭を悩ませてたとか。阿南惟幾氏も鈴木貫太郎氏も大変だったかと思います。
パワーホール
2025年5月14日
「軍人勅諭」に「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」とありますが、軍部がこれを守っていれば大きな混乱が避けられた可能性があります。「軍人勅諭」と「統帥権」、相反する仕組みですね。
あしたのジョージ
2025年5月14日
阿南惟幾氏も鈴木貫太郎氏も共に信頼している関係だったんですね。
お二人共部下から慕われているいい上司だったと思います。
阿南惟幾氏は、五・一五事件では軍内で同情的に見られている青年将校達の行動に批判的だったみたいですが、二・二六事件の時には鈴木貫太郎氏が負傷して部下達にいつもとは違う口調で、青年将校達の行動に切腹を迫るように厳しく批判されたみたいですね。
かなりの怒りようだったと思います。
自分の行動や発言に自分で責任を取る事は当たり前だと思います。
今の男系派の政治家や知識人などは、自分達の発言にどれほど責任を取る気持ちがあるでしょうか。
おそらくないと思います。
私も余り偉そうに言えませんけど。🥹