
1582年6月2日、本能寺に逗留中の織田信長を明智光秀が急襲した「本能寺の変」は、これまで様々な原因説が取り沙汰されてきました。「怨恨説」「野望説」「○○黒幕説」…ですが、最も有力とされるのが「四国説」です。信長から丹波平定(~1579)と平行して四国攻略を命じられた光秀は、土佐の長宗我部元親と信長を仲介し、元親には「四国は全て所領にして良い」という朱印状が与えられました。しかし直ぐに信長は「阿波を返せ」と約束を違えました。この件には中国攻略中の羽柴秀吉が関わっていました。淡路水軍を擁する三好氏を味方に付けたいから讃岐や阿波を三好に返させるよう信長に頼み、同時に光秀の四国攻略を妨害する意図もありました。怒った元親が反旗を翻せば四国政策は調略から征伐に変更されるため、光秀は元親を説得して妥協させましたが、間もなく織田信孝&丹羽長秀による四国攻略軍が大坂に迫る事態となりました。秀吉の恐るべき波状攻撃です。まるでABCD包囲網やハルノートで日本を追い詰めた米国のようです。
また、明智光秀の与力大名である細川藤孝や筒井順慶は事変後に光秀への協力を拒みましたが、彼らは既に秀吉からの調略を受けていた可能性があり、「中国大返し」も事前の準備と藤孝らの報告が無ければ不可能だったと思われます。以上より「四国説」+「秀吉黒幕説」には強い説得力がありますが、筆者は「暴君討伐説」の線も捨てません。
さて、藤孝の嫡男・忠興は光秀の娘・珠(後のガラシャ)を妻としていましたが、忠興は事変後に珠を丹後の未土野に幽閉し、秀吉に許されて大坂屋敷に移してからも軟禁しました。珠は美女だったので秀吉が狙っていたようです。後に珠がキリスト教に救いを求めた理由は父・光秀を襲った悲劇と忠興の束縛が大きいと筆者は考えます。やがて関ケ原合戦が迫ると、珠は人質として石田方に捕らわれるのを拒み、キリスト者に禁じられた自殺を家臣に殺させるという方法で敢行しました。珠は武家の習いを守っただけですが、ガラシャは欧州では何故か殉教者という扱いです。
以上のように当時は男も女も生き方が熱かったのです。そういう時代だからこそ覚悟を持つ男には男尊女卑も許されたと言えます。つまり戦後の属国民(♂)には許されないのです。にも拘らず令和の権力者(♀)が象徴的な男尊女卑(皇統男系主義)を存続させることにより一般的な男尊女卑の永続をも図るなど言語道断です。
文責:京都のS
1 件のコメント
京都のS
2026年2月28日
ふぇい様、掲載ありがとうございます。織豊期シリーズです。というか私の反時代的な光秀偏愛ブログのシリーズですね(笑)。他は以下です。
・「ダンケーさん、寝返るなら今だと思いますよー(棒)」( https://aiko-sama.com/archives/53559 )
・「豊臣家の諸問題から我々が学ぶべきこととは?」( https://aiko-sama.com/archives/65615 )
・「ダンケーさん、寝返るなら今だと思いますよー(棒) season2」( https://aiko-sama.com/archives/65949 )
・「世が世なら討伐されて当然の御仁なれど…」( https://aiko-sama.com/archives/66567 )