九州大大学院教授の施光恒氏は産経新聞で愛子天皇反対論を展開し、最後に「『国民の総意』とは、ある一つの時代を生きる日本国民だけの意思ではない。過去に存在した歴代の日本人の意思も含まれる。われわれは皇室の伝統を学び、先人の思いを汲(く)み取らなければならない。それに基づき、現代の問題に対処し、旧宮家の皇籍復帰など」が必要と言っていました。
先人の思いを汲み取り、それに基づき現代の問題に対処することは、確かに大事でしょう。
しかし、その視点は、男系に固執することを正当性するものではありません。
ここでは他の学者の論考と比較することで、施氏の視点の何が問題かを示したいと思います。
立教大学の原田一明教授(公法学)は、「女帝を認めるべきか-女子・女系による皇位継承の可能性」(『論究ジュリスト33号(2020年/春号)』)という論文の中で、戦前戦後の憲法学の泰斗佐々木惣一の考えを参照しながら、皇位継承の議論において踏まえるべき前提として、以下の2つをあげています(赤字は筆者による)。
1つは、皇位継承のあり方を論ずることは、天皇家(皇室)に限った「家」の問題ではなく、日本国憲法上の政治制度として、安定的・持続的な国家制度を構築するとの観点から論じられるべき問題だという点である。したがって、日本国憲法の下、特定の天皇や皇位継承者の個人的意思にも一定の配慮をしつつ、天皇という国家機関が、継続的・安定的に憲法上の役割を果たせるように制度化するとの観点から、あくまでも国家制度として論じられなければならない。
2つ目は、現在行われている皇位継承論議も、ここで新たなしくみの創設が目指されるものではなく、あくまでも現に存在する憲法上の象徴天皇制を基礎として、これを国民が維持し、存続することを望んでいるという国民の総意を前提に論じられるべきである。その上でいまも存続する天皇制の意味を考えることが、伝統を考えることだとすれば、「伝統を維持する」とは、正しく、われわれ国民全体の「社会生活の継続性」を表現しているのであって、ただ単に歴史を至上のものとして、現状の変更を一切認めないというものではないはずである。というのも、伝統とは、いま正に存在する国民全体の感情によって示され、維持され続けてゆくものだからである。
このように国家制度は社会生活の継続性が確保されるようその安定性を柔軟に検討し、伝統もその目的に照らして考えるというのが、国家制度のあるべき姿を論じる学者の責任ある態度と言えるでしょう。
ところが、施氏はよしりん十番勝負で見られたように、男系絶対派ではないと言いながら男系に固執し、男系継承で皇室が安定的に続く確かな根拠を一切示していません。
また、歴史上例外なく男系で続いてきたと言いながら、その理由を女性天皇だと政治利用されるという男尊女卑的視点以外からは説明していません。
結局、施氏の意見には、
日本社会の継続性維持のために国家制度の安定性をどう確保するかという公的な視点が全くない
のです。
施氏は皇位継承について、先人の思いを汲むというよりは、自尊心を満足させてくれるギネス記録のように捉え、記録の更新をできるだけ見ていたいという私的動機からしか考えていないのではないでしょうか。
これでは、う○こ竹田が憲法学者を名乗りながら「男系じゃない皇室なんて要らない」と感情をぶちまけたのと一緒ですね。
施氏は政治学者としての矜持があるのならば、竹田のようなみっともない姿勢を見せるのではなく、皇統が安定的に続く方法を確かな根拠をもって示すべきでしょう。
東京都 りょう
1 件のコメント
殉教@中立派
2022年9月1日
なるほど・・「伝統」を字面通りではなく「具体的な社会システム」として考えると、こうした考察になるのか。コロナ禍で炙り出された「現代社会を維持するものとは何か?無くなったらどうなるのか?」「中長期的な視座で、この国をどんな方向に向かわせるべきか?」「責任ある学者の役割とは?」の問題が、ここでもリンクしている。
「公的な視点の無い学者」の暴走。もう散々味わったし、これきりにして欲しいが・・。(偉い学者が)エビデンス・論拠・BECAUSEの欠如を「権威・まくし立て」で押し付ける体質を改善しないと、どうしようもない。一般国民がそれ(学者の思惑)に、自主的に気づいてくれればいいのだが・・・