機能集団が共同体化する「日本病」を癒すのは誰か?(結)

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山本七平との対談本『日本人と「日本病」について』で岸田秀氏は、
知恵の実を食べて楽園を追われた人間は本能が壊れた動物であり、人間の存在と自然との整合性を取る方法は各民族で異なり、それが「文化」や「共同幻想」の差異だとしています。
もし本能が壊れていなければ、受け継いだ能力・生まれた場所・生きていく時代といった各種の条件に左右された上での弱肉強食にも疑問を抱きませんが、
人間の場合は神の不作為・不公平・不条理・不合理を感じてしまいます。そうした不合理は近代国家では「棚上げ」されると山本は言います。
例えばキリスト教のような普遍宗教を国教とする国家では不合理は宗教に棚上げされ、英連邦に属す国々では英王室にも棚上げされ、
日本では不合理を引き受ける存在は当然ながら皇室です。
それは被害者・弱者を最も気に掛けておられるのが皇族方である点からも自明です。
この山本説を重視するなら、天皇は国事行為と宮中祭祀だけで良いなどとは絶対に言えません。

 不合理を棚上げする宗教や王室を欠いた国がどうなるかと言えば、
韓国のように普遍宗教(キリスト教)を移入するか、中朝ロのように時の権力者を権威化するかの二沢です。
ちなみに宗教やイデオロギーも実務部門は機能集団であって共同体ではありません。さらに戦後日本は天皇(不合理の棚上げ先)を努めて意識させずにきたため、
その隙を突くように統一教会やオウムのようなカルトが蔓延したと私は考えます。

 さて、機能集団が共同体化(≒世間化)する日本病は日本人の国民性であり、
その暗部(年長者に服従・逸脱に非寛容・空気に逆らえない)を克服するには「法治主義の徹底しかない」と言いたいところですが、
神と契約した経験が無い日本人には不可能だと私は考えます。
であれば、
人間性と本能との相克という哲学的不条理も、
日本的世間の暗黒面という民俗学的不合理も、
社会学的な不平等や不公平も、
全て棚上げ出来る存在としての天皇・皇室を永続させる努力をすべきです。
上記した矛盾や弊害の緩和を日本国民が天皇に期待するなら、
国民の側も皇族方に「生きがい」や「実存」を感じていただけるように努力すべきです。
法治主義という「機能」が適さない日本人にあっては、天皇と国民との相思相愛による一君万民の公民主義こそが
「共同体としての日本国」の暗黒面を除き光明面を活かす唯一の途なのですから。    

文責:京都のS

参考文献

『日本人と「日本病」について』(岸田秀・山本七平)
『「世間」とは何か』(阿部勤也)
『国土が日本人の謎を解く』(大石久和)
『縄文人に学ぶ』(上田篤)
『ゴーマニズム宣言Special民主主義という病い』(小林よしのり)
『ゴーマニズム宣言Special新・堕落論』(小林よしのり)

※機能集団が共同体化する「日本病」を癒すのは誰か?
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8 件のコメント

    京都のS

    2023年1月24日

     佐々木様、感想コメありがとうございます。その通りですね。大災害が発生しやすい日本の国土や風土から発生した日本的組織、そして世間という存在の暗黒面、それを緩和するための生贄として選ばれたのが皇室だと言えそうです。まるで「天気の子」の天野陽菜(晴れにする能力を使い過ぎれば天に召される)みたいです。
     その点については以下も参照していただきたく思います。
     「『囚われた皇族を開放すべき』論と我々はどう向き合えばよいか?」( https://aiko-sama.com/archives/8942

    佐々木

    2023年1月24日

    遅くなりましたが感想を述べさせていただきます。

    起承転結、全て面白かったです。
    同時に日本における不合理などを緩和する方法が
    天皇陛下はじめ皇室の方々に引き受けていただく
    という結論に、暗澹たる思いがしました。

    井上達夫先生は「天皇制は最後の奴隷制度」と言いましたが、
    人間が直面する不合理の緩和が宗教でもイデオロギーでもなく
    同じ生身の人間に求められる事に、むしろ「天皇制は究極の生贄」と
    呼んだ方がいいかもしれません。

    そんな残酷な方法でしか世の中の不合理に直面できないのであれば、
    我々国民はもっと皇室に寄り添っていかないと、
    いずれ日本は破綻を来すと思います。

    京都のS

    2023年1月22日

     西部邁氏が自裁されて5年ですか…。コロナ自粛禍・ワクチン禍という形で「日本病」が猛威を振るって早3年が経とうとしていますが、今の惨状を西部師匠が見ていたら、どう言うでしょうかね…。それに、政治レベルでは全く動いていない皇室問題についても。
     かつて西部氏は、天皇は神と人とのマージナルマン(境界に立つ人)だと仰いましたから、男と女との境界など楽に超えられると考えたはずだと想像します。
       (合掌)

    京都のS(サタンのSじゃねーし)

    2023年1月19日

     「沈黙ーSilenceー」という映画で、拷問を受けていた宣教師ロドリゴが神に答えを求めても神は「沈黙」していました。山本七平の「受容と排除の軌跡」には、幾人かの宣教師がキリシタン信仰を捨てて「日本教」(世間教?)に転んだことも書かれています。
     ところで、下のコメに書いた私の不全感の正体も知覚できてきました。日本の道徳教育についてキリスト者に問われた新渡戸は「武士道」が根拠になっていると答えたとされますが、これより先に進むには「菊と刀」の刀に踏み込むしかないのでしょうね。形而上(宗教レベル)の殉教と形而下(世俗レベル)の「死ぬことと見つけたり」の違いです。ワタクシの集まりとしての世間(のダークサード)を超えていくには、(狂ったものでない)公に殉じる個人の決断が必要だと思われます。それは明鏡止水の心境(胸すわって進む状態)に至った兵士たちの「天皇陛下万歳」だと思われます。

    京都のS

    2023年1月19日

     殉教様、詳細な感想をありがとうございます。「神は居ないのか!?」という魂の叫びを発したくなるような不条理に陥った人が、それでも信仰を捨てられないのは、神に身を捧げること(殉教)をも想定する普遍宗教(キリスト・ユダヤ・イスラム)のパワーです。それがない場合(韓国には儒教や巫術しか無かった)は普遍宗教を移入したり、金一族や共産党を権威化したりするしかありませんでした。
     日本ではオウムに高学歴の若者が入信することが問題化した時期も重要です。バブル崩壊から数年が経ち、実力差が如実に意識される時代になったことです。小林先生は歴史との断絶が問題だとして「教科書問題」や「戦争論」の戦いに突入されました。また「戦争論」に対して「天皇なきナショナリズム」という批判が来るよりも前から「天皇論」も必要だと考えておられたように思います。
     法治主義や立憲主義などの抽象概念を権威化するような契機は日本人にはありません。「王殺し」による革命を経て立憲主義を勝ち取った経験が無いからです。だから欽定憲法(押し付け憲法)になったのでしょう。戦後の米定憲法も同様です。そうした日本人が抽象概念を権威化するなら、それは「設計主義」だと言わざるを得ません。
     「主体的に変われる国民」となる契機としては、私は「愛子天皇を戴くための祭」も該当すると考えています。それは幾つかの世間主義(男系固執世間・男尊女卑世間・名誉男性世間…)を覆したことを意味するからです。同様に「統一協会からの宗教法人格剥奪」や「各種コロナ対策の撤回」「対米独立につながる立憲的改憲」「脱原発」…なども該当するはずです。
     ダダ様もコメありがとうございます。これから皇室との「新訳」を築いていきたいですね。

    ダダ

    2023年1月19日

    皇室に対して条件付きの敬愛となっていないか、自分自身を顧みたいと思いました。
    神との契約はできませんが、天皇との約束(共に在り続ける)なら、庶民の私にも出来そうです。

    殉教@中立派

    2023年1月18日

    ・「棚上げ」という独自用語が、ややイメージしにくいですが・・・例えば、苦しんでいる農民に、神父が「教会に寄付をして、信心を深くして働けば、死後に天国に行ける」という慰めを与える・・・・くらいの意味でしょうか。歴代天皇が、弱者と常に握手し続けてきた事も、似てはいると思います。

    ・カレーせんべいさんは「このデジタル化の時代に、カルト宗教が流行るなんて!」と意外に思っていたようです。カルトは「『見向きもされず、疎外された弱者』が、なにか超越的なものに、救いを求める」という気持ちを起こした時に、入り込んでくるものなのでしょう(ここでいう弱者は、オウムエリートのような、とても幅広い意味で使っています)。

    ・小林先生×井上達夫「ザ・議論」のP41で、「立憲主義や法の支配という『原理』が、権威になるべきだ」とありますので、これは「法の支配の徹底」に近い考え方でしょう。ただ、抽象的な理念にも、その背後には具体的な「人」がいる(愛する人、家族、友人、守るべき人たちの生きている、今の国・故郷を守る!)・・というのが、小林先生の考えのようです(※)。
     抽象理念単体では、日本人にとっての権威にはなりえないし、法治主義という「不向きなシステム」も、仕方なく続けるしか無いでしょうが。
     単なるシステムに留まらない天皇・皇室は、もっと「活用」されて然るべきであり、その上で(マスク・お注射騒動と同じく)「主体的に変われる国民」が望ましいでしょう。
     ・・最近、エマニュエル・トッドの紹介記事で「日本流のシステムは、一度固定されると、自力で変化するのが難しい」とありましたが。それでも「私達が諦めたら全てが終わる(by高森師範)」を忘れずに、進むしかないでしょう(根性論みたいな結論だが、やむなし)。

    (※)「戦争論」「ゴー宣EXTRA パトリなきナショナリズム」などを参照。

    京都のS

    2023年1月18日

     (結)までお付き合いいただきありがとうございました。結局、国民が皇族方に頼るなら、上皇陛下が退位時の会見で仰ったように「幸せなことでした」と思ってもらえるようにしろみたいな結論になってしまったことに実は私自身が不満だったりします。これでは「伴野十蔵」が予言した通りじゃないか?と憤慨された方もおられると思います。申し訳ありませんが、今の私にはココまでってことです。

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