博愛と競合の間(結)~ナショナリズムの倫理性

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 前章では日本の病理を見てきましたが、今回は米国の病理にも踏み込みます。岸田秀氏によれば、汚れた欧州を捨てて新天地で正義の国を築くという使命を帯びて北米大陸へ辿り着いた清教徒らのアイデンティティは正義でしたが、彼らは先住民(インディアン)を虐殺して土地を奪いながら西進したために正義が揺らぎ、ゆえに米国の進んだ文化を拒否して遅れた文化に固執したインディアンの方が悪いと自己正当化したそうです。従って米国人は自分らの正義を確認するために対外戦争では病的に同じことを繰り返すわけです(反復強迫)。日米戦争では非戦闘員居住地への絨毯爆撃と2発の原爆投下、そして相手国を絶対悪として裁いた東京裁判が該当します。

 ところで、戦後日本の経済的繁栄は米国のインディアン・コンプレックスを大いに癒しました。米国の文化を積極的に受け入れた日本が繫栄したのなら、かつて自分たちが虐殺したインディアンの方が間違っていたと自己正当化できるからです。しかし、以後の戦争で負け続けて再び正義が揺らいだ米国は、もう日本人に原爆投下を謝罪することは無い(オバマの詩的表現は自国免責)でしょうし、原爆投下の復讐を恐れる米国が対日占領を「自発的に」解くことも無いでしょう。

 さて、平成29年3月22日に宮内庁が公開した愛子様の作文には修学旅行で広島を訪れた際の感想が綴られています。その結びは「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う…『平和』は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから」です。

 岸田秀氏の言うように米国人の戦争が正義病の症状であるなら、日本人の自虐史観が骨絡みであっても、日本国民は「最後の被爆国」となるべく発信し続けるしかありません。もちろん❶自我(戦勝国への適応)と❷超自我(更新を経た倫理規範)と❸エス(復讐心)との間で平衡を取りながら。

 また同時に❶自我(時代への適応)と❷超自我(更新すべき制度)と❸エス(庶民感情)が揃って指し示す愛子天皇の御代へ向かうことは世界史的にも意義の有る日本国民の使命だと思われるのです。

 ちなみに、フランス革命で掲げられた「博愛」とは同胞愛(≒ナショナリズム)であり、本稿タイトルは国際的な「競合」で伍していくにはナショナルな存在(≒皇室)が不可欠との意です。    

(文責:京都のS)

(参考文献)
・『日本がアメリカを赦す日』(岸田秀著)
・『日本人と武士道』(スティーヴン・ナッシュ著・西部邁訳)
・『日本人と「日本病」について』(山本七平・岸田秀共著)
・『「世間」とは何か』(安部謹也著)
・『国土が日本人の謎を解く』(大石久和著)

6 件のコメント

    京都のS

    2024年4月26日

     続編の「博愛と競合の間(余)~圧倒的に節度が足りない!」( https://aiko-sama.com/archives/37381 )も読んでください。

    京都のS

    2024年2月24日

     SSKA様、凄く深い部分を読み取り考察を重ねておられますね。感心しました。
     先の戦争の後、昭和天皇は日本人の付和雷同してしまう性質を批判的に見ておられたと聞いたことが有ります。これが最も的を射た戦争の反省だと私は考えるのですが、にも拘らず左翼は戦争を止められなかった廉で昭和天皇を全否定します。その左翼人士が当時を生きていたら間違いなく付和雷同する側だったでしょうね。自称保守も同じです。自身が浸かる蛸壺内で付和雷同しているから男系固執なのです。
     またジャップは国際的にも付和雷同します。グローバリズムの受容という形でです。戦前は全体主義や国家主義がグローバルな感覚だと嗅ぎ取った日本人が軍国化を進めたわけですが、戦後は戦争の反省というよりヤケクソで主権放棄し、そのままグローバル化に突き進んでいます。当然ながら国内でも世間ファシズム(空気)に乗って付和雷同します。嗚呼…。
     自我・超自我・エスの時処位に応じた平衡は難しいですが、皇族方の自己研鑽される姿にヒントがありそうだと私は感じています。

    SSKA

    2024年2月23日

    自称尊皇保守派と皇室の差は何なのだろうと考えながら論考を読ませていただきましたが、天皇以外の幅広い歴史研究に触れず日本人としての自己分析を怠っているのが彼等の特徴で皇室はその真逆にあると改めて考えました。
    昭和天皇が戦前戦中の国民の行動を分析し批判されておられたのと同様に現在の皇室も慈しみの心を抱かれる一方で歴史に対し冷静な視点をお持ちであると感じています。
    現在の男系(保守)派に著しく欠けていると思われるのが、日本を敗退させた明治以降の単純な思想を再び採用しても国民と国際社会の何れからも支持を得られないと言う常識感覚と「転の章」で論じられた他の民族、地域との差異を認めず同類と錯覚した事で失敗したアジア政策(大東亜共栄圏や中朝政策)の反省であり、一例として儒教圏の血統感覚を日本固有だと言い張る姿勢は民族間の比較検証を全く行わず再び同じ失敗を繰り返している様に見えます。
    日本文化研究に精通しながらも絶対視する事なく様々な知見を取り入れながら自らを律しておられるのが皇室であり、その中でも誡太子の書に見られる通り抜きんでておられるのが天皇ご一家の姿勢であるのは海外の来賓への対応にも表れている通りで①~③の概念の間を常に行き来しながら思考や洞察を巡らせておられる様に感じます。
    正確な海外研究や深い交流は一般人には困難ですが、せめて最低限日本人とは何か(③)を他人事とせず自覚した上で①②の先人達により積み重ねられた知識や経験を自分なりに取捨選択出来る人間になりたいと思います。
    ありがとうございました。

    京都のエス

    2024年2月21日

     Y様、※ありがとうございます。
     アメリカの正義病は、まず自らを正義と規定したのにインディアンを虐殺したという罪悪感があり、そこから逃れたいがために発症していますが、中国の唯我独尊病は、絶対権力者としての皇帝が現れるたびに絶対服従してきたという国民性に由来している気がします。歴代王朝の皇帝たちのメンタリティーを全人民が内在化しているのでしょう。でも米中の共通点としては、紛争死史観(日本人以外のほぼ全ての民族)と災害死史観(日本人と太平洋島嶼国民)の違いが大きく関わっていると思われます。
     自我・超自我・エスについてですが、実は私のハンドルネーム(S)はフロイト精神分析の「エス」から来ています。正確にはミスチルの曲名に引用されたものですが。

    神奈川のY

    2024年2月20日

    アメリカの自国を絶対正義として、相手を絶対悪として扱う病理は、シナの病理にも共通しているなと感じ、他者に対しての情緒酌量もなく、虐殺しても呵責をあまり感じないのは日本の病理と正反対なのだなと分かりました。また、皇位継承問題で、自我、超自我、エスのバランスが崩れると今の男系固執の病理になるのだなと改めて思い、このバランスは崩してはならんと心得ました。

    京都のS(サタンのSじゃねーし)

    2024年2月20日

    「博愛と競合の間(起)~精神の三層構造」( https://aiko-sama.com/archives/35934
    「博愛と競合の間(承)~有限ゆえ価値希求」( https://aiko-sama.com/archives/35943
    「博愛と競合の間(転)~日本的人間観の病理」( https://aiko-sama.com/archives/35946

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