
今回は明智光秀の丹波攻略に触れます。織田軍が侵入する前の丹波
以上の年表を木下藤吉郎(羽柴秀吉)の動きに重ねると奇妙な事実が浮かび上がります。信長上洛の翌年(1569)には既に秀吉が但馬国に侵攻しており、毛利輝元も赤井直正も欲しがる生野銀山に秀吉も手を伸ばしていたのです。輝元が信長包囲網に加わると竹田城主・太田垣輝延(生野銀山を領有)は毛利に帰順(1573)しますが、赤井直正が竹田城を急襲して占拠し(1575)、丹波に入った光秀が波多野の裏切りに遭って撤退し、光秀が攻略を再開した頃には秀吉が播磨平定を終え(1577)、光秀の黒井城攻めによって但馬が手薄になると小一郎秀長は難なく竹田城に入りました(1578)。
つまり秀吉の目的は最初から生野銀山だったのであり、赤井も波多野も毛利も光秀すらも秀吉の手駒だったと思われます。信長の最終目標は明国支配ですから、それに必要な軍資金の調達先が生野銀山や石見銀山だったのでしょう。ちなみに当時の日本は銀の採掘量が世界一でしたから、スペイン(西)もポルトガル(葡)も日ノ本の植民地化を狙っていました。
ここで筆者は「本能寺の変・原因説」として新説「対外防衛説」を唱えます。日ノ本VS明・朝鮮で双方が弱った時に西・葡が漁夫の利を得るという事態を防ぐべく信長を止めたという説です。もちろん、この説は「天正の宗教戦争~」で論じた「暴君討伐説」(正親町帝の大御心を拝察した光秀が信長を排除)とは矛盾しません。「菊」と「刀」は日本国の両輪ですが、令和日本は高市早苗のせいで両方とも危機的状況です。
文責:京都のS
2 件のコメント
京都のS
2026年3月24日
3月23日の「知恵泉」は秀吉の長浜城がテーマでした。浅井の小谷城を棄てて長浜に「水城」を築き、湖上水運や商業を重視した秀吉の先進性を褒め称えていましたが、「水城」の元祖は明智光秀の坂本城です。秀吉は光秀の坂本城を羨ましがっていましたから、つまり「二番煎じ」とも言えます。「坂本城<<長浜城」は「勝者史観」ってやつですね。
京都のS
2026年3月21日
ふぇい様、掲載ありがとうございます。織豊期シリーズ(反時代的な光秀偏愛シリーズ)です(笑)。他は以下です。
・「ダンケーさん、寝返るなら今だと思いますよー(棒)」( https://aiko-sama.com/archives/53559 )・・・楠木正成論から明智光秀論に展開
・「豊臣家の諸問題から我々が学ぶべきこととは?」( https://aiko-sama.com/archives/65615 )・・・豊臣秀吉の周辺から皇室問題を考える
・「ダンケーさん、寝返るなら今だと思いますよー(棒) season2」( https://aiko-sama.com/archives/65949 )・・・筒井順慶からも皇室問題を考える
・「世が世なら討伐されて当然の御仁なれど…」( https://aiko-sama.com/archives/66567 )・・・津田信澄からも皇室問題を考える
・「生き方が熱かった頃の遺制は温(ヌル)い属国民には許されない!」( https://aiko-sama.com/archives/67774 )・・・細川忠興とガラシャからも考える
・「日本国と皇族方を追い込む卑劣漢どもを絶対に許すな!」( https://aiko-sama.com/archives/68767 )・・・荒木村重からも考える
・「高市早苗には100ヶ条ほどの折檻状が必要」( https://aiko-sama.com/archives/68981 )・・・佐久間信盛と荒木村重から考える
・「天正の宗教戦争と令和の皇統問題」( https://aiko-sama.com/archives/68987 )・・・知られざる上京焼き討ち事件から暴君討伐説へ