エージェントの排除には大義がある

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 明智氏の居城とされる明智城には2説あり、それは長山城(可児市瀬田長山)と白鷹城(恵那市明智町)です。長山城は、長良川合戦(斉藤道三VS斉藤義龍:1556年)に続く戦で落城し、明智光秀の伯父である光安(左馬之助秀満の父)が討死し、光秀主従は越前国へ落ち延びました。白鷹城は、武田勝頼の差し向けた秋山虎繁や山県昌景に攻められて落城(上村合戦~明知城の戦:1574年)し、当地を領有していた明知遠山氏の遠山景行・景玄・友治らが討死しました。後者は無関係に思えますが、明智光安と遠山景行が同一人物だという説があるので捨て置けません。今回はコレを検証します。ちなみに筆者は別人と判断します。

 同一説では、子の無かった遠山景成が明智光安を養子に迎えますが、やがて景成に景玄が生まれたため、景行(光安?)は実子の弥平次(左馬之助秀満?)を三宅家へ養子に出し、義弟の景玄を養嗣子としました。その後に生まれた友治や利景と共に一家を成しましたが、武田軍侵攻に対して織田信忠や明智光秀の援軍が間に合わずに遠山氏は滅亡しました。同一説を採る場合、この明智光安一家見殺し事件も「本能寺の変・原因説」の「怨恨説」に数えられます。「信長が波多野兄弟を始末したせいで光秀の実母が磔刑にされた」だの「武田討伐後の宴席で調子コイタから打擲された」だの「徳川家康の饗応役を解任されて羽柴秀吉による中国攻めの援軍に回された」だのという「怨恨説」を日本人は好みますが、その理由は「大義」より「私怨」の方が理解しやすいからでしょう。

 さて、還俗して家を継いだ遠山利景の子孫は明治維新まで続きますが、遠山家では江戸後期に再び同様の養子問題が起こりました。子の無かった遠山景好が他家から養子(景晋)を取り、その後に生まれた義弟の景善を景晋が養嗣子とし、また景善に子が無かったために景晋の子・景元が養嗣子となりました。ちなみに北町奉行に出世した金四郎景元は「遠山の金さん」です。

 以上のように例え1代であっても養子は宗系の紊乱が懸念されますが、約600年も前に分岐した大傍系の子孫を養子入りさせるという超絶紊乱制度が改悪皇室典範の「新設6章・養子皇族男子」です。これは外国の諜報機関が日本を滅ぼすために動いた結果ではないでしょうか。中国のxinxiでしょうか?いいえ、韓国の統一協会です。当然そのエージェントは男系固執派の言論人と政治屋です。奴らを排除すべし!    

文責:京都のS

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