「光る君へ」から皇族女子の生き辛さを思う 14th season

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 「光る君へ」は雅な貴族社会を描くドラマですが、時には権力闘争に伴う武張った展開も挿入されます。1006年の除目(任官の儀式)で右大臣に推挙された平維衡が伊勢守に任じられましたが、これは左大臣・藤原道長(柄本佑)により直ぐ取り消されました。道長が一条帝(塩野瑛久)に直談判した際には、平維衡が同族の平致頼(中村織央)と伊勢国で軍事衝突を繰り返していた事実を挙げ、放置すれば各地の領主も寺社も武力に頼り、やがて戦乱の世になると訴えました。事実、維衡を祖とする伊勢平氏が後に武家政権を樹立し、やがて源平合戦へ繋がります。ちなみに劇中の致頼は藤原伊周(三浦翔平)に従う武者として金峯山に赴く道長を暗殺する寸前でした。

 これと同時期に起こったのが興福寺別当・定澄(赤星昇一郎)による強訴事件で、要求が通らなければ三千の僧兵が土御門殿(道長邸)を焼くと脅しました。そもそも興福寺は藤原一族の氏寺ですが、拡大した荘園を守るために武装し、朝廷が任命した国司との紛争も頻発していました。強訴の主な理由は、源頼親(清和帝の5世孫・大和守)の郎党・当麻為頼と興福寺との紛争中に頼親が大和国司に再任されたことへの異議申し立てです。

 また、1017年には当麻為頼が清原致信(清少納言の兄・藤原保昌の郎党)に殺され、報復として致信は源頼親(藤原保昌の甥)に殺されました。藤原保昌(藤原道長に仕える武官・大江山討伐に参加・和泉式部の夫)にとっては家来と甥が殺し合ったことになります。ちなみに清和帝の5世孫は、頼光(大江山の鬼退治)・頼親(興福寺と紛争)・頼信(頼朝の祖先)の3兄弟で、源頼信・藤原保昌・平致頼・平維衡の4名は道長四天王と呼ばれており、道長は対立した武人らを「全部抱きしめ」たわけです。

 もう一つ上記から分かることは、どんなに男っぽく殺伐とした事件にも清少納言や和泉式部といった女性の文人が関与していることです。ちなみに劇中では”まひろ”(後の紫式部:吉高由里子)が”ききょう”(後の清少納言:ファッサマ)に『枕草子』、”あかね”(後の和泉式部:泉里香)に『和泉式部日記』を書くよう勧めました。そして紫式部は『源氏物語』で現実を動かし歴史を動かしました。このように我が国は女性が歴史の主役になれる国なのです。少し前の飛鳥期や奈良期は女帝が歴史の主役でした。現在も儒教の影響権力者の私欲を排除すれば、直ぐにも正統なる伝統に還れましょう。    

文責:京都のS

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