歴史が変わる分水嶺だと自覚したなら!

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 『古事記』倭建命は熊襲討伐に続いて出雲建を討伐しますが、『日本書紀』巻七(景行・成務)日本武尊は熊襲(川上梟帥)を討伐した後に吉備(穴済神)や難波(柏済神)を制圧した件を父・景行帝に報告しており、出雲の記述は存在しません。しかし、倭建の出雲征伐に酷似した内容『書紀』巻5(崇神)の四道将軍(吉備津彦&武淳川別)による出雲振根討伐の件にあります。

 『古事記』によれば、熊襲征伐の帰路に倭建は出雲国に入り、出雲建と友好的に接しながら、彼の剣を木剣と交換して騙し討ちしたそうです。また『書紀』巻5によれば、崇神帝が出雲大神宮丹波国一之宮:亀岡市?)に蔵される神宝を所望し、武諸隅饒速日の7世孫)を派遣して献上させようとしました。神宝を主管する出雲振根が筑紫へ出向中だったために弟の飯入根が勝手に献上しますが、それを恨んだ兄は『記』の倭建と同じ方法弟を討ったそうです。その報告を受けた帝は直ぐに吉備津彦武淳川別を派遣して出雲振根を誅殺させました。

 ここで注目すべきは、神宝の在り処が杵築神社(後の出雲大社)ではなく出雲大神宮である点と派遣されたのが武諸隅である点であり、つまり本件は出雲ではなくタニハ(丹波~但馬)で起こった可能性が高いのです。また本シリーズでは欠史八代を除いて「1.神武=10.崇神」と圧縮するため、四道将軍らも「大彦=高倉下」「武淳川別=天村雲」「倭迹迹日百襲姫=玉依姫」「大吉備津彦(百襲姫の弟)=宇都志日金拆」「丹波道主=日子坐王&息長宿禰王」となります。

 さて、日本武の・播磨稲日大郎姫は『播磨国風土記』では丸部臣(和爾氏)の娘であり、武淳川別や吉備津彦の手柄を倭建の手柄として付け替えた理由は、やはり稗田阿礼(和爾氏出身の記紀編纂者)歴史改変かと思われます(※空前絶後~参照)。

 そして歴史改変と言えば、現在進行中の男系革命(旧宮家に連なる男系の一般人による皇位簒奪)は、後世の歴史家による改竄みたいに生易しい代物ではなく、日本史上初の易姓革命が音を立てて進んでいるのであり、これが成った時には皇室の終了と日本国の終了が同時宣告されます。こうした限界ギリギリの状況に在って今上陛下は、7割から9割の国民が「愛子天皇」を望んでいる現状も見据えた上で「国民の皆さんの理解が得られるものとなることを望んでおります」と仰いました。

 皆様、今こそ承詔必謹です!    

文責:京都のS

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