歴史喪失が招く竹田(麻生)王朝という地獄

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 本論は皇統の血統主義の最初は継体~欽明期であると知った上で書いています。『日本書紀』巻6によれば、活目入彦五十挟茅(垂仁帝)は丹波道主の娘・日葉酢媛を后に立て、間に生まれた子には大足彦(後の景行帝)と大中姫(仲哀帝の妃)と倭姫(巡幸の後に伊勢神宮を創建)がいます。ちなみに「丹波道主」とは四道将軍の丹波方面軍・長官を指す役職名だと思われます。

 さて、本シリーズでは欠史八代を除いて「1.神武=10.崇神」とし、他家も適切に系図を圧縮するため、息長氏の系図は、9代・開化帝→日子坐王(妃は息長水依姫)→息長宿禰王→息長帯姫(神功皇后)となります(※「愛子天皇へ続くべき~」参照)。さりとて息長宿禰王=丹波道主とした場合、11代・垂仁帝の后(日葉酢姫)と14代・仲哀帝の后(息長帯姫)が姉妹となってしまいます。そこで、丹波道主の役職は日子坐王から息長宿禰王へ父子継承されたと考えれば、日葉酢姫の父は日子坐王となり矛盾は解消されます。

 また、王統の血統主義が始まる前は合議による共立制だった点に着目し、被共立要件を「①群臣を納得させる実力」「②前王との血縁の近さ」仮定して論を進めます。最初に摂津三島(磐余彦の后・五十鈴姫の出身地:賀茂氏領)から崇神(神武)帝が立ち、次に丹波から垂仁帝(后は丹波道主の娘)が立ち、次に吉備から景行帝(后は吉備氏と和爾氏の縁者)が立ち、この継承は豪族間の持ち回りゆえ終身王が居らず、成務・仲哀といった短命政権もあり、日本武尊が活躍した陰で景行政権も短命だったなら、垂仁朝から仲哀朝(実際は神功朝)まで間が無かった可能性もあります。そして垂仁&景行の外戚である丹波道主(息長宿禰王)の娘という点を重視すれば息長帯姫と大中姫との優位性の差は縮まり、さらに息長帯姫には新羅を征服する程の神懸った実力があり、つまり要件①②を備えていたからこそ仲哀帝の死後に約70年間も王位を独占できたわけです。当然①には大中姫の子ら(忍熊王&麛坂王)を誅殺した件も含まれます。

 以上から読み取るべきは、日本の皇室史における外戚(母方の血族≒女系血統)の重要性です。ここから我が国の伝統は双系継承だと判りますが、外戚重視は蘇我・藤原による王権の私物化という悪弊を招き、今またシナ儒教に基づく内戚(父方)重視を足掛かりに、養子(竹田恒泰の子孫)を取る宮家の外戚(麻生太郎)が権力を握るという「麻生男系革命」が進行中です。    

文責:京都のS

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