ケインジアン双系派がケインジアン男系派を駆逐する! 35th season

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 Eテレの歴史番組「知恵泉」(7.22)が徳川家斉を採り上げていました。家斉は田沼意次失脚直後に11代将軍に就任し、この時に老中首座となった松平定信は田沼の政策を全て反転させる寛政改革(1787~93)を断行し、質素倹約(緊縮財政)と綱紀粛正(出版・言論統制を貫き、政権批判した表現者は粛清され、出版王・蔦谷重三郎も財産半没収の憂き目に遭いました。やがて民から「白河の清きに魚も棲みかねて元の濁りの田沼恋しき」との批判が出ると家斉は定信を罷免しました。倹約しても幕府財政が悪化していた(不景気で商人からの運上金↓)ため、次に実権を握った水野忠成が貨幣改鋳(金含有量↓)を行うと経済は活性化しましたが、今度は風紀が乱れたため脇坂安董を寺社奉行に登用し、脇坂は延命院事件(大奥女中と美僧による醜聞)を解決しました。以上より家斉の人材登用術は時処位に適ったバランス重視だと言えます。

 文化文政期(1804~30)は江戸の庶民文化が最盛期を迎え、葛飾北斎・歌川広重らの浮世絵、十返舎一九らの滑稽本が流行し、天婦羅・寿司・蕎麦の屋台もファストフードとして定着し、和食の基礎も確立されました。割烹番付で殿堂入りした「八尾善」の人気は家斉が立ち寄ってからであり、八百善の店主が『料理通』を出せば大ヒットし、『卵百珍』『豆腐百珍』などの料理本ブームも起こり、また家斉は「園癖」「花癖」として知られ、家斉が気に入った植木は大流行し、家斉が厄除けに行った川崎大師も名所となりました。「自分が楽しめば民は豊かに、国は栄える」「自分だけが楽しむのではなく民と共に栄える」は家斉の言葉として伝わっています。つまり、江戸の庶民文化を楽しみ、自ら民の中に入って交わった家斉は流行を生み出して「家斉売れ」を起こすインフルエンサーでした。これは「愛子様売れ」「佳子様売れ」を起こす現在の皇族方に通じるものがあり、これこそが「景気の気」であり、現代日本の政治屋には絶対に不可能でしょう。

 ところで番組では言及されていませんが、当時は国際情勢が不穏(文化露寇:1806、フェートン号事件:1808)でしたから、当時の幕閣は国防関連(間宮&伊能の測量隊etc.)にも予算を付けたはずです。これは属国として武器を買わされるだけの戦後日本とは異なり、独立を保つための国防予算です。おそらく家斉は全方位的に名君だったはずですが、彼をオットセイ・暗君とディスったのは戦後の自虐派緊縮派でしょう。    

文責:京都のS

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