シラケた日本国民を活気づける画期は愛子様の立太子!

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 8月27日の「知恵泉」(Eテレ)はシーボルトを採り上げていました。ナポレオン戦争(1803~15)で植民地を失ったオランダは、新たな輸出品を発掘すべく貿易相手国の日本で資源・産業・美術品などを調査する密命を、軍医のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに下し、そうして彼は出島(長崎)のオランダ商館に入りました(1823)。名医との評判が立ったシーボルトは出島の外でも医療行為が許され、当時の日本は蘭学ブームだったために医学を志す若者が長崎に集まっており、鳴滝塾を開設すると高野長英ら優秀な弟子が集まりました。また当時の欧州は英国を中心に園芸ブームだったために異国の植物が珍重され、シーボルトは2000株もの日本産植物を本国に送り、中でもカノコユリは球根と同重量の銀で取引され、オランダは莫大な富を得ました。

 さて、オランダ商館長の江戸参府に随行したシーボルトは、伊能忠敬の測量と地図作製にも関わった幕府天文方の高橋景康と接触しました。祖国のために伊能図(軍事機密)を欲した諜報員シーボルトは高橋と取引して同図を入手すると、さらに蝦夷地と樺太の地図も欲しがり、測量した間宮林蔵に手紙を送りました。実は対外隠密だった間宮は開封せず幕府に届け出たため、高橋もシーボルトも弟子らも逮捕され、シーボルトは国外追放となりました(1828)。帰国したシーボルトは20年かけて『NIPPON』を執筆し、同著は日本の文化・歴史・政治・宗教の知見が満載で、伊能図の複製もチャッカリ掲載され、後に黒船で幕府を脅して開国させたMペリーも同著で大いに日本を研究し、こうした日本研究の成果は大東亜開戦前にも活かされたはずです。

 ところで、日本の文化文政期(1804~30)は花木に凝り過ぎて「園癖」と呼ばれた11代・徳川家斉の治世(※「35th season」参照)であり、同時に文化露寇(1806)やフェートン号事件(1808)などで対外危機も高まり(※「9th season」参照)、それゆえ伊能測量隊(※「齟齬が生じたら~」参照)や間宮測量隊(※「22nd season」参照)にも予算が付き、それら多くの要因が重なった結果として日本は江戸文化の最盛期を迎えるほど空前絶後の好況に沸きました。しかし、現代日本で家斉的ケインズ政策を施しても効果は無いと思われ、理由は江戸庶民のような活気が無いからです。ゆえに愛子様の立太子・即位愛子皇太子の結婚・出産ぐらい「景気の気」を刺激する画期が必要なのです。    

文責:京都のS

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