近代史の悲劇は「血のスペア」という非道なシステムが原因では?

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 9月22日の「英雄たちの選択」は大河「べらぼう」のヴィラン一橋治済を採り上げていました。8代将軍・徳川吉宗が創設した御三卿(田安・一橋・清水)は将軍家のスペアであり、領国を持つ御三家(紀伊・尾張・水戸)と違って子作りだけが使命です。田沼意次と一橋治済は田安賢丸(後の松平定信)を陸奥白河藩へ養子入りさせ、10代・家治の嫡男(家基)が亡くなると一橋家の家斉が将軍家に養子入りし、家治が亡くなると家斉が11代将軍に就きました。家治の死と共に田沼意次が失脚すると、幕政人事に影響力を持つ大奥の御年寄(奥女中の最高位:大崎と高橋は治済の手駒)が推挙した松平定信が老中首座&将軍補佐に就きました。

 定信を幕閣のトップに押し上げた治済は将軍の父として幕政への参画を希望しましたが、定信は寛政改革(1787~93)の倹約に伴って大奥の高橋・大崎を解任し、また尊号一件(※「江戸後期の~」を参照)でも定信と治済は鋭く対立しました。改革の失敗で幕閣内に反発が広がると定信は辞意を表明し、家斉の慰留(+権限の強い大老への昇格)を期待しましたが、治済の意向で辞意は受理されました。

 当時はロシア使節のラクスマンが根室に来航して通商を求める(1792)など国際情勢が不穏でしたが、番組は定信を幕政に残すか否かを「治済の選択」として提示し、本能(治済&家斉の血縁関係)VS理念(吉宗・意次・定信の改革)の対立で本能が勝ったから「太平の眠り」に就いた(黒船来航まで無策だった)と言いたげでした。

 しかし、意次(対ロ海防の公共投資)と定信(投資を削る緊縮財政)を同列に扱うのは不公正であり、朱子学者の定信なら家光以来の法(交易は日蘭・日清のみ)にも逆らえないはずです。番組は定信の「大政委任論」が慶喜による大政奉還や薩長による倒幕に至ったとも言いたげでしたが、これも後付けの理屈だと感じます。

 さて、後にオランダ商館長ティチングは『日本風説図誌』(1822)で田沼意知を非常に高く評価(※「C 31th season」を参照)しましたが、もし意知が殺されずに田沼政権が続いたなら、理念(合理)と本能(感情)が平衡(※「合理と感情の間」を参照)し、列強への武備と町人文化の隆盛が両立し、公武が争わず、英仏の代理戦争も無く、益荒男ぶりにも振り切れ(→男尊女卑)ず、継嗣令の「女帝の子も亦同じ」も残り約150年後に皇室滅亡の危機も迎えなかったとすら思えるのです。    

文責:京都のS

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